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コンスタンティネ1世 (ジョージア王)

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コンスタンティネ1世
კონსტანტინე I
ジョージア王コンスタンティネ1世のレリーフ

ジョージア王
在位期間
1407年1411年
先代 ギオルギ7世
次代 アレクサンドレ1世

出生 1369年
死亡 1411年
王室 バグラティオニ家グルジア語版
父親 バグラト5世グルジア語版
母親 アンナ・メガリ・コムニニギリシア語版
配偶者 ナティア・アミレジビ
子女
信仰 ジョージア正教会
親署
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コンスタンティネ1世グルジア語: კონსტანტინე Iグルジア語ラテン翻字: Konstantine I1369年1412年)は、バグラティオニ朝グルジア語版ジョージア王国の王(在位期間1407年–1411年)。現存するバグラティオニ家グルジア語版の支系すべての共通の祖である[1]

生涯

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コンスタンティネはバグラト5世グルジア語版の長男として誕生。母親はトレビゾンド皇帝アレクシオス3世ギリシア語版の娘アンナギリシア語版であった[2]

1400年、コンスタンティネはジョージア侵攻グルジア語版を続けていたティムール朝に、大使として派遣された。コンスタンティネはティムールとの和平を結ぶよう異母兄ギオルギに求めたが、空振りに終わった。1402年、コンスタンティネはサムツヘ公国グルジア語版イオアネ2世グルジア語版とともにティムールに服従したが、ジョージアとの戦争でティムール側に与することはなかった。1407年、ギオルギ7世の死により、コンスタンティネはジョージアの王位を継承。ティムールとの戦争で荒廃した国土の復興計画を開始した。またコンスタンティネは1411年までにシルヴァン・シャー朝ペルシア語版イブラヒム1世アゼルバイジャン語版およびシャキ国アゼルバイジャン語版シディ・アフメド・オルラトアゼルバイジャン語版と同盟を結び、黒羊朝のコーカサス進出に抵抗した。

1412年、ジョージア王国とシルヴァン・シャー朝の連合軍はチャラガンの戦いグルジア語版にて黒羊朝に決定的な敗北を喫し、コンスタンティネ、弟ダヴィトwikidata、そしてシルヴァン・シャー朝のイブラヒム1世アゼルバイジャン語版が捕縛された。

捕囚中、コンスタンティネは横柄な態度を取った。これに激怒した黒羊朝のカラ・ユースフペルシア語版は、コンスタンティネと弟ダヴィト、そしてジョージア貴族300名の処刑を命じた。カラ・ユースフはコンスタンティネを、自らの手で殺した[3]

結婚と子女

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コンスタンティネはクツナ・アミレジビグルジア語版の娘ナティアと結婚。ナティアの家族に関する文献はほとんど残されていないが、サムツヘのフルツィゼ家[3]という説と、シダ・カルトリアミジレビ家ロシア語版の祖先と称されるガベリスゼ家[4]という説がある。ナティアの父クツナ・アミレジビは、1386年ごろに駐コンスタンティノープル大使であった[3]

コンスタンティネは3人の息子をもうけ、全員が1405年から1408年の間で共同君主に任命された[3]

系譜

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参考文献

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  1. ^ Massingberd, Hugh (ed., 1980). Burke's Royal Families of the World, Volume 2, p. 61. Burke's Peerage. ISBN 0850110297.
  2. ^ Profile of Alexios III and his children in "Medieval Lands" by Charles Cawley
  3. ^ a b c d Toumanoff, Cyril (1949–51). The Fifteenth-Century Bagratids and the Institution of Collegial Sovereignty in Georgia. Traditio 7: 174, 176-177.
  4. ^ (ロシア語) Grebelsky, P. Kh., Dumin, S. V., Lapin, V. V. (1993), Дворянские роды Российской империи (Noble families of Russian Empire), vol. 3, p. 38. IPK Vesti.

外部リンク

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